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1988年、私は3ケ月に渡ってヨーロッパを旅行した。
その時の日記は一部しか残っていないので、全ての記録を載せる事は不可能だ。しかし、わずかに
残っている日記の中にダッハウに関する記述が残っていたのでその日記を頼りに思い出し
ながら書いてみる事にする。
日記には6月29日(水)とある。私はその少し前に北欧で水疱瘡らしき病気にかかり、光熱は出るわ、
湿疹は出るわで酷い目に合った。オスロで病院に行ってアスピリンをもらい、2,3日してようやく熱が
下がったわけだがが、身体はだるいし、湿疹も少し残っていて必ずしも絶好調とは言えなかった。
病気になったのはおそらく強行スケジュールと水が合わなかったからだろう。ヨーロッパ自由旅行を
する時は、日程に余裕を持ち、睡眠と栄養を十分取らなくてはならないという事を痛感したものである。
強制収容所というとポーランドにあるアウシュビュッツを連想する人も多いが、あちらは余りにも
遠いので、ドイツに来られた方はこちらに足を運ばれる事をお勧めする。
何故ならミュンヘンからバスで全30分程の行程だからだ。ツーリスト・インフォメーションで訪ねれば
すぐに行き方を教えてくれる。
収容所というものはものすごいド田舎に作るものだから、何もない所を何十分も歩かされたら
どうしよう、とか平日の事もあって見学者が異常に少なかったら場所が場所だけにイヤだなー、とか
余計な心配をしたものだが、高速地下鉄でミュンヘンから約20分の所にあるダッハウに着いた時、乗客の
ほとんどがここで降り、収容所跡直通バスに向かうバスの中は観光客や社会見学の小学生の団体、老若男女
様々な人で満杯だった。ドイツが過去に犯した史上最悪の犯罪に対する関心度の高さを物語っている様だ。
日本ならばアジアにおける侵略を振り返るといった催し物などほとんどなく、まるでなかった事の様な
扱われ方である。しかし、ドイツは過去の過ちを直視し、
二度とこういう悲劇を繰り返さない様に世界に向けて宣伝する姿勢には頭が下がる想いだ。
バスは10分程で到着。田舎は田舎だが、ダッハウの市街地から5キロと離れていない。ミュンヘンからじゃ
車で40分といった所か。何故こんな近い所に収容所を作ったのだろう。いくら50年前とはいえ、やはり近くには
住民もいただろうに何も感じなかったのだろうか。ただの捕虜収容所や政治犯収容所としか知らされて
なかったにせよ、薄々は気付いていたはずだ。しかし、彼ら一般市民に何ができただろう。
根強い反ユダヤ意識が黙認させたとしても、やはりそれ以上にナチが恐ろしかったのだろう。
ワイダ氏の「聖週間」でもあった様に、ユダヤ人をかばいだてするだけで明日は我身となってしまうのだから・・
バスを降りて少し歩くと厳めしい建物が見えてきた。鉄条網が張り巡らせてあり、その先には見張り台など
があってああ、ここは収容所なんだと改めて実感させられる。
棟は2つしか残されていなかったが、その内の一つにはベッド、食堂、トイレが残されているが、
ベッドなどは昔「戦争展」などで見たみすぼらしいものと違って整然としているのでレプリカかも
知れない。
しかし、さすがにガス室と焼却炉を見た時には、霊感の薄い私でも戦慄を覚えた。
50年前何万人もの人が殺された場所だと思うと犠牲者の怨念がこもっているようでとても平静ではいられない。
説明の書かれたプレートがあり、それには「シャワー室と名付けられたガス室、しかし、ここに入った
者は二度と生きては戻って来なかった」と書かれている。
ふと、そばにいたおばあさんが
「日本から来たの?」と聞いてきた。
「はい」と肯くと
「そう・・私は、昔この収容所にいたのよ」という言葉が返って来た。
私は思わず絶句した。その後の言葉が出てこない・・
その時の私の顔を鏡で映せばおそらく、泣き出しそうな顔をしていたに違いない。
しかし、泣きたくても泣けなかった・・。
彼女は焼却炉に花を置いた。他の人達を見ると十字を切っている人がいるがを私は
咄嗟に仏壇を拝むように手を合わせた。
おばあさんに「これ、buddistの祈りなの。でも生きていてよかったね。長生きしてね」
と言った。おばあさんはニコッと笑って向こうに行った。
ホロコーストやガス室は捏造だと言っているネオナチのバカ者どもがいるが、彼らはこういう
生存者の証言をどう説明するのだろう。今のおばあさんの悲しそうな顔を思い出すにつけ、私には
あれは実際にあった事だとしか思えない・・
この収容所には博物館があって、ホロコーストの記録映画を見せてくれるが、やはり見ていて
決して気持ちのいいものではない。しかし、この映像は後世にまで伝えなくてはならないと
思う。刺激が強すぎるからと子供に見せないのはどうかと思う。
ミュンヘンに戻ると街をぶらついたが、収容所を見た後では全然ウキウキした気分にならない。
3ケ月にも渡るヨーロッパ旅行で一番重い一日だった。
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